
1850—1852 ギリシャ
1848年 | アイルランド人で英国陸軍軍医補のチャールズ・ブッシュ・ハーンはギリシャのキシラ島に派遣され、そこで地元の娘ローザ・アントニア・カシマチと出会う。 |
1849年 | チャールズとローザは恋に落ち結ばれ、チャールズの転属先レフカダ島へ移る。 7月24日にローザは長男のロバートを出産する。 |
1850年 | パトリック・ラフカディオ・ハーンが6月27日に生まれる。 この年の8月17日、兄のロバートが死亡。 |
1852—1861 アイルランド

1861 フランス
1861年 | フランスのノルマンディ地方にある教会学校に入学し、フランス語を身につけたと言われているが定かではない。 コングに住む叔母、キャサリン・エルウッドが亡くなる。 チャールズの後妻アリシアがマラリアのためインドで没する。 | 1862年 | 祖母エリザベス没。享年71歳。 |
1863—1868 イギリス
1869—1877 アメリカ・シンシナティー
1869年 | ロンドン又はルアーブル(フランス)から移民船に乗ってアメリカに渡る。 アメリカに渡ったラフカディオは最初の数年、シンシナティーで貧窮生活を送る。 その年ヘンリー・ワトキンと出会う。 |
1872年 | シンシナティー・エンクワイアラー紙に彼の初めての記事が載る。 |
1874年 | シンシナティー・エンクワイアラー社の正式な社員となる。 |
1875年 | 混血女性アリシア・フォリー(通称マティー)と結婚する。 白人と黒人の結婚を禁止した当時の州法に違反するとしてシンシナティー・エンクワイアラー社を解雇されシンシナティー・コマーシャル社へ移る。 |
1877—1887 アメリカ・ニューオーリンズ
1877年 | マティーと別れてニューオーリンズに移る。 |
1878年 | ラフカディオはデイリー・シティー・アイテム社の正社員になる。 |
1881年 | タイムズ・デモクラット社の文芸部長に迎えられる。 |
1882年 | 12月12日、コルフ島の精神病院でラフカディオの母ローザが死亡。 |
1887—1889 マルティニーク
1887年 | ハーパー社の寄稿家として西インド諸島のマルティニーク島へ渡り、そこで約2年過ごす。 |
1889年 | ラフカディオはハーパー社に日本行きの企画を持ち込む。 |
1890—1904 日本
1890年 | ラフカディオは4月4日横浜に到着する。 ハーパー社との契約を解消し、バジル・ホール・チェンバレンの仲介で島根県尋常中学校の英語教師の職を得る。 『仏領西インドの2年間』が出版される。 |
1891年 | 士族の娘、小泉セツと生活を共にするようになる。 この年11月、熊本第五高等中学校の英語教師として、セツを伴って熊本に赴任する。 |
1893年 | 11月17日、長男一雄(レオポルド・カズオ・ハーン)が誕生する。 |
1894年 | 家族を伴い神戸に移り、神戸クロニクル社の記者となる。 『知られぬ日本の面影』が出版される。 |
1896年 | 結婚帰化手続きが完了し、日本人小泉八雲となる。 帝国大学文科大学講師として家族を伴い東京に赴任する。 |
1897年 | 二男巖が誕生する。 |
1898年 | 『異国風物と回想』が出版される。 |
1899年 | 三男清が誕生する。 『霊の日本』が出版される。 |
1900年 | 『影』が出版される。 |
1901年 | 『日本雑記』が出版される。 |
1902年 | 『骨董』が出版される。 |
1903年 | 学生の留任運動にもかかわらず、帝国大学を辞職し、後任として夏目漱石が着任する。 長女壽々子が誕生する。 |
1904年 | 早稲田大学講師に就任する。 『怪談』が出版される。 9月26日、東京の自宅にて心臓発作のためラフカディオ死亡。享年54歳。 『日本――ひとつの試論』が出版される。 |