1850—1852 ギリシャ
1848年 | アイルランド人で英国陸軍軍医補のチャールズ・ブッシュ・ハーンはギリシャのキシラ島に派遣され、そこで地元の娘ローザ・アントニア・カシマチと出会う。 |
1849年 | チャールズとローザは恋に落ち結ばれ、チャールズの転属先レフカダ島へ移る。 7月24日にローザは長男のロバートを出産する。 |
1850年 | パトリック・ラフカディオ・ハーンが6月27日に生まれる。 この年の8月17日、兄のロバートが死亡。 |
1852—1861 アイルランド
1852年 | 8月1日、2歳になるラフカディオは、父方の叔父リチャードに伴われ、母ローザとともにダブリンに到着する。 ロアー・ガーディナー通り48番地に住む父チャールズの母親、エリザベスとその娘ジェーン、チャールズの叔母にあたるスーザンがローザ母子を迎える。 その後まもなく、異教徒で風俗習慣の異なるローザと息子は、次第に英国国教徒であるハーン家での同居が気まずくなり、エリザベスの妹で裕福な未亡人サラ・ブレナンが住むラスマインズ地区レンスター・スクエアー21番地に移る。 |
1853年 | 10月8日、グレナダからチャールズが帰還し、初めて父子の対面をする。 10月9日、ハーン家において再会し家族が食卓を囲む(その夜、夫チャールズの愛に不安を覚えたローザは、一時精神錯乱状態になる)。 |
1854年 | 4月21日、チャールズはクリミア戦争に従軍するため戦地に赴く。 郷愁にかられたローザは、キシラ島へ帰郷した(この時懐妊していた)。 残されたラフカディオの子守り役キャサリン・コステロが雇われる。 8月12日、弟のジェイムズ・ダニエルが生まれる。 |
1855年 | ブレナン夫人は、アッパー・リーソン通り73番地に居を移しラフカディオはここで養育される。 夜になると、ラフカディオは「子ども部屋」と呼ばれる部屋に入れられ鍵をかけられ、毎夜耐えられないほどの恐怖を味わうことになる。 ある夜、ブレナン夫人の家に滞在するジェーンと呼ばれる女性の幽霊を見る。 ブレナン夫人に連れられ、このころから夏になるとウォーターフォード州のトラモアの別荘に滞在して、海で泳ぎを覚える。 |
1856年 | クリミアから帰還したチャールズは、ダブリン市内で行われた英国歩兵連隊のパレードで、息子を自分の馬に載せて行進し、またその後の晩餐会にもラフカディオを伴っている。 チャールズは、ローザとの離婚と未亡人となった初恋の人アリシアとの結婚を考える。 |
1857年 | 英国の離婚法成立により、正式にローザとの離婚が認められた。父からアリシアと再婚することをトラモアで告げられる。 7月18日、アリシアとチャールズは正式に結婚し、 8月4日、チャールズは新妻とその娘二人を伴って、インドへと旅立つ。 ローザもキシラ島で船会社を営むジョン・カヴァリーニと再婚し、弟ジェイムズはダブリンに送り返される。彼女は二人の息子に二度と会わないという宣誓書にサインをし、その後二度と会うことはなかった。 ラフカディオは、弟ジェイムズに初めて出会い束の間一緒に遊ぶ。 |
1858年 | 学齢に達したためチューターによる家庭教育を施される。 この頃、チャールズの姉でラフカディオの叔母にあたるキャサリン・エルウッドの住む、メイヨー州のコングを訪れる。いとこのロバートと一緒に遊びケルトのフォークロアに触れる(この体験は、のちに作品「ひまわり」となる)。 夏になると北ウェールズのバンゴーで幸せな時間を過ごす。海で遊び、外国の話をたくさん聞いたり異国風の骨董品に心をときめかせたりする。 |
1859年 | 異母妹ミンニー・シャーロットが生まれる。 |
1860年 | 三人目の異母妹ポジー・ガートルードが生まれる。 |
1861 フランス
1861年 | フランスのノルマンディ地方にある教会学校に入学し、フランス語を身につけたと言われているが定かではない。 コングに住む叔母、キャサリン・エルウッドが亡くなる。 チャールズの後妻アリシアがマラリアのためインドで没する。 | 1862年 | 祖母エリザベス没。享年71歳。 |
1863—1868 イギリス
1863年 | 9月、英国ダラム市郊外アショーにあるカトリック系の神学校セント・カスバート・カレッジ(全寮制)に入学。そこでの厳格な宗教教育に、反発を覚える。 |
1866年 | 校庭で「ジャイアント・ストライド」と呼ばれる遊具で遊んでいるとき、飛んできたロープの結び目が左目に当たり、ダブリンでの治療もむなしく失明する。 11月21日、父チャールズがマラリアに罹って除隊。インドからの帰国途中、スエズ運河を通過する船中で息を引き取り、水葬される。享年48歳。 |
1867—1868年 | ハーン家の遠縁ヘンリー・モリヌーが投機に失敗。これに出資していたブレナン夫人が破産したため、セント・カスバート・カレッジの中退を余儀なくされる。 かつての使用人、キャサリンを頼ってロンドンに行くが、惨めな生活を送る。 |
1869—1877 アメリカ・シンシナティー
1869年 | ロンドン又はルアーブル(フランス)から移民船に乗ってアメリカに渡る。 アメリカに渡ったラフカディオは最初の数年、シンシナティーで貧窮生活を送る。 その年ヘンリー・ワトキンと出会う。 |
1872年 | シンシナティー・エンクワイアラー紙に彼の初めての記事が載る。 |
1874年 | シンシナティー・エンクワイアラー社の正式な社員となる。 |
1875年 | 混血女性アリシア・フォリー(通称マティー)と結婚する。 白人と黒人の結婚を禁止した当時の州法に違反するとしてシンシナティー・エンクワイアラー社を解雇されシンシナティー・コマーシャル社へ移る。 |
1877—1887 アメリカ・ニューオーリンズ
1877年 | マティーと別れてニューオーリンズに移る。 |
1878年 | ラフカディオはデイリー・シティー・アイテム社の正社員になる。 |
1881年 | タイムズ・デモクラット社の文芸部長に迎えられる。 |
1882年 | 12月12日、コルフ島の精神病院でラフカディオの母ローザが死亡。 |
1887—1889 マルティニーク
1887年 | ハーパー社の寄稿家として西インド諸島のマルティニーク島へ渡り、そこで約2年過ごす。 |
1889年 | ラフカディオはハーパー社に日本行きの企画を持ち込む。 |
1890—1904 日本
1890年 | ラフカディオは4月4日横浜に到着する。 ハーパー社との契約を解消し、バジル・ホール・チェンバレンの仲介で島根県尋常中学校の英語教師の職を得る。 『仏領西インドの2年間』が出版される。 |
1891年 | 士族の娘、小泉セツと生活を共にするようになる。 この年11月、熊本第五高等中学校の英語教師として、セツを伴って熊本に赴任する。 |
1893年 | 11月17日、長男一雄(レオポルド・カズオ・ハーン)が誕生する。 |
1894年 | 家族を伴い神戸に移り、神戸クロニクル社の記者となる。 『知られぬ日本の面影』が出版される。 |
1896年 | 結婚帰化手続きが完了し、日本人小泉八雲となる。 帝国大学文科大学講師として家族を伴い東京に赴任する。 |
1897年 | 二男巖が誕生する。 |
1898年 | 『異国風物と回想』が出版される。 |
1899年 | 三男清が誕生する。 『霊の日本』が出版される。 |
1900年 | 『影』が出版される。 |
1901年 | 『日本雑記』が出版される。 |
1902年 | 『骨董』が出版される。 |
1903年 | 学生の留任運動にもかかわらず、帝国大学を辞職し、後任として夏目漱石が着任する。 長女壽々子が誕生する。 |
1904年 | 早稲田大学講師に就任する。 『怪談』が出版される。 9月26日、東京の自宅にて心臓発作のためラフカディオ死亡。享年54歳。 『日本――ひとつの試論』が出版される。 |