パトリック・ラフカディオ・ハーン(1850-1904)は、2歳から13歳までの人生で最も重要で多感な時期をアイルランドで過ごし、その後、地球を半周以上して最後に日本に到着した。そして、日本人小泉八雲として54年の生涯を終えた。
パトリック・ラフカディオは、アイルランド人の父チャールズ・ブッシュ・ハーンとギリシャ人の母ローザ・カシマチとの間にイオニア海に浮かぶ小さな島レフカダで生を享けた。しかしわずか2歳の時、母に連れられ父の故郷であるダブリンにやってきたが、アイルランドでの生活は困難に満ち、彼を幸福にすることはなかった。最愛の母を捨てた父、厳格なカトリック教育への反抗、幽霊やゴシックに対する恐怖、養育者である大叔母の破産。そして大西洋を渡りたどり着いたアメリカで捨てた「パトリック」というファーストネーム。
アイルランドでの体験と記憶は、彼の心の奥底で一生つきまとうことになったが、来日後のハーンが、日本の民間伝承を違和感なく受け入れ、その本質を理解できたのは、少年時代を過ごしたアイルランドの文化環境に育まれた想像力が大きな役割を果たしたと考えられる。
ダブリンで母と生き別れ、大叔母サラ・ブレナンに養育されることになったハーンは、孤独な少年時代を乳母キャサリン・コステロと共に送った。キャサリンはアイルランド西部コナハトの出身で、アイルランド語を母国語とする女性だった。この乳母が少年ハーンに怪談や妖精譚をたくさん語ったようだ。
ハーンは来日後、代表作『知られぬ日本の面影』(1894年)、『心』(1896年)、『怪談』(1904年)などを執筆し、その中で「知られざる民衆の精神生活」を見事に描出し、日本人の自然観や宗教観、怪談の中にある真理を見出すなど、直観的ともいえる日本理解を行った。
ハーンの生涯は、旅そのものであり、苦労と挫折の連続だったが常に希望を忘れぬ人だった。
ギリシャからアイルランド、アメリカ、マルティニーク、日本と渡り歩いたハーンは、彼自身が様々な国や文化の集合体であり、そのことが異文化理解の多様性という点で、偏見に陥らず物事の本質を見抜く能力を培ったのだった。それがハーンのオープン・マインドといえるのではないだろうか。
晩年ハーンは、アイルランドの国民的詩人W.B.イェイツに宛てた手紙の中で、家族にも語らなかったアイルランドへの愛情を次のように告白している。
…ダブリンのアッパー・リーソン通りに住み、私には妖精譚や怪談を語ってくれたコナハト出身の乳母がいました。だから私はアイルランドのものを愛すべきだし、また実際愛しているのです。
1901年9月24日. W.B.イェイツ宛て書簡より
ハーンが描いた日本は、きわめてアイルランド的想像力を通してみた世界だったと言えるだろう。放浪の旅人であったパトリック・ラフカディオ・ハーンの魂は、長い旅路の果てにいよいよアイルランドに帰ってくることになる。