ハーンの「オープン・マインド」

「オープン・マインド・オブ・ラフカディオ・ハーン」“The Open Mind of Lafcadio Hearn”は、2009年アテネのギリシャ・アメリカン・カレッジにおいて開催された世界で初の「アートでハーンの精神を表現する」造形美術展のタイトルであり、その美術展には、ハーンの開かれた精神性に共感するアーティスト約50名がさまざまな形の造形作品を寄せました。そしてオープニングには500人を超える人が訪れるなど大きな話題となりました。これをきっかけに、翌年2010年には同タイトルの美術展を松江市の松江城天守閣内で開催し(松江市主催)45,000人が訪れ感動と話題を呼び、その後もこの美術展は、2011年にニューヨーク、2012年にニューオーリンズと巡回し人々の関心を集めました。
この美術展になぜ多くの人が感動を覚え多数の動員数があったのでしょうか。おそらく、このタイトルそのものにハーンの生き方や理念が表されているからではないかということ、またそれを目にした多くの人々の共感と理解を生んだこと、文学者であるラフカディオ・ハーンの解釈を学問的な見地からではなくアーティステックな側面から試みたことなどが、文学ファンのみならずさまざまな分野の人を受容する魅力と効果を生んだことなどが考えられます。

ラフカディオ・ハーンの作品から彼のオープンマインドが感じられる文章をご紹介しましょう。

偏見のない美意識

その点、われわれ西欧人は、なにか病的な触覚的感受性によって発達した醜陋(しゅうろう)なもののために、多くの純粋な自然にそっぽを向けているようなところがあるのではないだろうか? この問題は、すくなくとも一考してみる価値がある。そういう醜陋なものを無視するか、もしくは抑制するかして、――つまり、理解すればつねに愛すべき、あるがままの赤裸々な「自然」を容認しながら、日本人は、われわれが盲目的に醜悪なもの、ぶざまなもの、厭うべきものと考えているものに――たとえば昆虫とか、石くれとか、カエルとか、そういうものに「美」を発見しているのである。日本人だけが、ムカデの形態を美術的に用いられるという事実は、全く意味のないことであろうか? ……わたくしは諸君に、わたくしの所蔵している京都製のたばこ入れの、火焔のゆらめきに似た波模様のついた革に、金のムカデが走っているのを、お目にかけたいものだ!

「蛙」『異国風物と回想』(平井呈一訳)

日本の未来へのメッセージ

西洋と東洋が将来競争する場合に、確かなことは、最も忍耐強い、最も経済的な、最も簡素な生活習慣をもつ民族が勝ち残ることである。費用の多くかかる民族は、その結果ことごとく消滅するであろう。自然は偉大な経済家であり、決して間違いをしない。生存最適者は自然と最もよく共生でき、必要最小限の生活で満足できる人々である。これが宇宙の法則である。

「極東の将来」1894年1月27日 熊本での講演(桃井恵一・桃井祐一訳)

人間中心主義への警告

人生の野望や向上心を生み出してきたものは何でしょう? それは霊なのです。神々と呼ぶ人たちもいれば悪魔という人もあり、天使という人たちもいます。そのものたちは人のために世界を変えてきました。人に勇気と目的を与え、自然への畏怖がしだいに愛へと変わることを教えました――そのものたちは、見えない世界が持つ意味と動きをあらゆることに吹き込みました――恐怖と美の両方を生み出してきたのです。 霊も天使も悪魔も神々も今はいません。みな死に絶えました。電気と蒸気と数学でできた世界は、がらんとして冷たく、虚ろです。

チェンバレン宛書簡 1893年12月14日、『ラフカディオ・ハーン著作集』第16巻(長岡真吾訳)

樹木に魂が宿る―宇宙の真理

木に少なくとも日本の木に魂があるということは、梅の花と桜の花を見たことのある者には不自然な幻想などと思えない。こうした信仰は、出雲でも他の地方でも広く行われている。仏教哲学とは一致しないが、ある意味で、「人間の用に立つべく創造されたもの」という西洋古来の正統的な樹木観と較べて、はるかに宇宙の真理に近い、という印象を与える。

「日本の庭」『知られぬ日本の面影』(仙北谷晃一訳)

民族音楽に光を当てたパイオニア

わたくしは正直に告白しなければなりませんが、ワーグナーの真価を理解できずにいる一人であり、また、私はいつ聴いても、未開種族の音楽にしたたかに感動し、かつそれに魅力を覚え続けているのであります。わたくしはアフリカの音楽やスペイン語圏アメリカの旋律に、すっかり酔わされてしまっているのです。そして、これらの音楽は、そのいずれもが、高度な音楽的感覚とは無関係のものと看做(みな)されることでありましょう。けれども、もしあなたが出雲に来られましたならば、器楽および声楽の両方面にわたる音楽をお聴かせすることができましょうし、それをお聴きになったあなたは、それを「美しい」とお思いになるばかりか、美しいという以上のものであるとお認めなさいますだろうと、わたくしは確信いたします。

チェンバレン宛書簡 1890年11月、『ラフカディオ・ハーン著作集』第14巻